祖父と傷痍軍人

祖父は傷痍軍人が嫌いだった。
自身も陸軍に入営し、大陸に派遣されてトラックを運転していた*1人だったが、昭和十九年まで大学に在籍していたそうで、兵役自体は長いというものでもない*2。戦地に居たのが短かったこともあってか、幸いなことにボクの祖父は、腕が飛んだり片目を失ったり、白木の箱に入って帰ってくるなどということなく、無事に復員してきた*3。まあ、ちゃんと生きて帰ってくれたお陰でボクは今この世に居るのだが。
戦争という地獄の中で共に戦った戦友との交流は、その後も続けていた*4ようで、去年の葬儀のときにも、お二人が参列してくださった。
おっと、脱線してしまったな。話を傷痍軍人に戻すとしようか。
国のため、家族のため、そして、自分のために戦った人たち。散ってしまった英霊もいらっしゃるし、戦傷を負ってしまった方もいる。負傷してしまうと、退役後の生活は非常に辛く苦しいものになってしまう。恩給が貰える、といっても、何もしないで暮らせるほどの額は支給されないのだろうし*5、何より、その後職に就くことが難しくなってしまう。大きなハンディキャップを背負ってしまうわけだ。定職に就けないということはその日の食事も事欠くようになってしまうだろう。そういう人たちは、一日道端に座っているか、楽器を演奏したり、何か芸などを披露して、哀れに思った通行人が金を恵んでくれるのを待つ・・・・という、ことばは悪いが、ほとんど乞食か物乞いのようなことをするしかなかったのだ。親父が子供*6の頃にもまだそういう人たちは随分居たようで、上野界隈でよく見かけられたらしい。
しかし、世の中必ずズルをする奴が現れるもので、義足を自分の前に置いてハーモニカなんぞを吹いていたのが、日が暮れるとすっくと立ち上がり、その義足を「持って」帰って行ったなどという不貞野郎も相当いたという。
みんながみんな、そういうことをしていたわけじゃないし、実際そうするしかなかった人も、もちろん居たと思う。
でも、祖父は傷痍軍人が嫌いだった。何故なのだろう。ボクにはイマイチ理解出来なかった。「そういうこと」をしていた奴がいたからか。負傷したのが悪い、ということなのか。もう逝ってしまった人に聞くことは出来ない*7ので、真意は解らない。
一度として、お年玉をくれることはなかった祖父。新年に子供が楽しみにしているそれを与えなかった理由は、もしかしたらこの話が根ざしているのかも知れない・・・・。

*1:第二二自動車連隊?だったか。部隊に1輌しかないフォードを運転していたそうだ。

*2:最終階級は上等兵だったかな?それも特進して、らしい。詰まり二等兵だったのか。

*3:マラリヤ?に罹って生死の境を彷徨ったらしい。南方ならまだしも、大陸の方でマラリヤというのが少し解せないが・・・。

*4:上官殿から電話が掛かってくると途端に態度が変わって、祖母はそれが厭で堪らなかったそうだ。

*5:その恩給すら支給されなかった人も居る。

*6:本当に小さい頃らしいが。昭和三十〜四十年頃か?

*7:生きていても聞くのは憚られる。