人間牧場

学食で北海道フェアだかなんだかで小振りなホタテがごろごろっと入った塩ラーメンがあるのだが、あれを食べているといつも考えることがある。
このホタテは稚貝なんだろうか?それともこれくらいのサイズが成貝の品種なのだろうか?と。
そしてもし稚貝だとしたら、小さいホタテ貝と大きく育てたホタテ貝、残酷なのはどっちなんだろう、という考えに至る。
これを人間に置き換えてみてしまうところがぼくなのだ。
――如何にも粗末な(家畜小屋のような)建物に押し込められ、ただただ食物だけを与え続けられている幼女たち。幼女たちは小屋の外の世界を知らない。
ある日飼育者の巨人が幼女たちを有無を云わさず連れてゆく。巨人の工場で釜で茹でられ、巨人の市場へ出荷される幼女たち。そして巨人の食卓に並び、食されるのだ。
幼女たちの小屋の少し離れたところには、幼女のときには出荷されず、そのまま育てられた女性たちが、幼女たちと同じように押し込められ、食物だけを与え続けられている。彼女たちも外の世界を知らない。
そして彼女たちも、結末は幼女たちと同じ。頃合いを見計らった巨人たちに連れて行かれ、加工され、出荷されて巨人たちの食卓へ供されるのだ――
こんなことを考えだしちまうのだ。食事中に。
そこでぼくはひとつの疑問が沸き起こる。
食物として生産しているものが高度な知能を有していたとしたら、それは食物たりえるのか?
高度な知能を持ち合わせていないからこそ、我々は数多の「食物」を生産できているのではないか、と――
そんなようなことをぐるぐる考えているうちに、何がなんだか分からなくなっていって、日々安穏と生活していると忘れてしまいがちな、ぼくらはたくさんの命を貰って生きているんだということを痛いほど思い知らされて、美味しい塩ラーメンのしょっぱさが少し増したような気がしてくるのだ。



「幼女」や「女性」という表現について、不快に思われる方がいらっしゃるかも知れません。気分を害された方、ごめんなさい。ですが、「幼女」を「子供」に、「女性」を「大人」に変えようかとも思ったのですが、それではぼやけたニュアンスになってしまう気がしたので、思いついたときのままの表現としました。